【ネグレクトと愛】二児虐待死事件について多くの方がいろいろな立場から発していて、関心の高さが伺えます。この報道といろいろな方の反応は親の責任、子どもの命の所有についての象徴的な事件だったなあと思います。
あの事件について「ネグレクトではない、殺人だ」という方もいてなるほどなあと思います。閉じ込めて幼児を遺棄したらどうなるかという想定が立たないはずが無い。「ネグレクト」というと育児放棄を指すのですが、今回のケースは故意に児童を監禁したという点で殺人だと言われています。生活保護も受けず、夫からの援助も断り、ホストクラブに通っていたというポイントが付随されることで世間一般の感情を大きく煽ってしまったようです。
殺人かどうかは不明ですが、こんなにネグレクトの代表的事例もないかもしれません。
ネグレクトという言葉の定義と使用されている状況がやや微妙なところなんですが、育児放棄とは子どもに必要な生活環境を与えず、放置するということで使用されます。この言葉だけ取ると育児に関心が無い子どもに興味が無い、という印象を持ちます。だからネグレクト事件が起きると「どうしてこんなことするくらいなら施設に預けなかったんだ」と言われます。
事件としてセンセーショナルに取り上げられることが多いのは、食事を与えず殺すという事件です。よく考えてみると人間はいっくら小さくても動ける年齢でお腹が極限まで減るほど放置されたら、動いて食事を探します。しかし被害に遭った多くの児童は長期間の飢餓状態に追いやられます。長期間の飢餓状態になることにどういうことかというと、それは食事を探そうとすると繰り返し虐待されたことを意味しています。逃げ出そうとすると暴力を振るう、他の人から食べ物を貰ったことが判明すると烈火のごとく怒り出す、閉じ込め監禁する。そういうことが繰り返された結果、長期間の飢餓状態に陥るのです(今回のケースに当てはまるのかどうかは不明ですが、代表的な例として)。支配であり、個人の行動を大きく制限する虐待行為です。
これは育児「放棄」ではなく、それに相反する言葉「干渉」です。ネグレクト事件は所業だけ聞くとまさに鬼のような行為で放置だろうが干渉だろうが虐待には変わりないのですが、干渉と放棄は大きく意味が異なります。「遺棄・放棄」と聞くと子どもに関心の持てない自分本位の異常な親がするものだと思います。だからこそ「それくらいなら施設に預けろ」となる。しかし今回の事件に関する母親の凄まじいまでの自分で育てるという執念、経済的にも物理的にも他人に子育てに関わってほしくないという子どもへの執着は本当に育児放棄なのでしょうか。
自分ではもう育てきれないと分かっているのに、部屋に閉じ込め放置した子どもへの支配欲は裏を返すと「子どもを誰にも渡したくない」という強い衝動なのではないでしょうか。私は「所有欲」と現代における「愛」の定義はそんなに変わらない、と思っています。そしてやはりこの母親にも子どもへの所有欲や束縛心を感じます。虐待する親には愛が無いと言いますが、そんなことなくて愛や束縛、嫉妬心や支配、憎しみ怒り楽しみ喜び、邪魔だと思う心干渉したいと思う心、そりゃあもういろいろな感情が子どもに対してあるのです。
それは一般の子育てしてる親御さんと何も変わらないのです。
【母の「責任」】ずいぶん前にテレビでドキュメンタリーを見ていて、ある母親が
「生活に困って子どもを育てきれなくなったら一緒に死のうと思っていた。よく心中で親が糾弾されているけど、残して死んでしまう子どものことを考えると母親だったらその気持ちがよく分かる。」と言っていて、母がいなかった私としては「おいおい、親の都合で殺されるなんてまっぴらだよ!」とその時は思いました。それくらいなら施設に預ければいいのに、とも思いました。
またよくうちの祖母が
「絶対に親は子どもが大きくなるまで死んじゃいけないんだよ。子どもがうんと苦労するからね。」と言っていて、そんな根性論言われても生き死になんて調整できないし……ぐらいにしか思ってなくて、よく分かりませんでした。
「親がダメになる前に子どもを置いて出ていけばいいし、子どもは子どもで親が無くても子は育つだろう」と。ですが大人になった今、いわゆる「ネグレクト事件」は子どもに対する愛が無いわけでも無関心でも興味が無いわけで起こるわけじゃない。あの時ドキュメンタリーで心中を考えた母親の言葉、祖母の発言とリンクしているかもしれない、と思うのです。
世の母親たちに子殺しを選ばせる子育てのプレッシャーはいかなるものなのでしょうか。「絶対に死んじゃいけない」という現実に不可能な発言をさせざるをえないほどの責任感とは、どれほど重たいものなのでしょうか。
事件の母親のように追い詰められ、やけくそになり子どもを逃げ出せない場所に閉じ込め放置する、というのはネグレクト致死事件ではではよく聞きます。この「子どもから逃げ出したい」けれど「子どもに逃げ出してほしくない」とう相反する感情。 「自由になりたい」のに「子どもが他人の手に渡ることが許せない」という激しい葛藤は、自分が最後まで善き母親でありたいと願う心であるようにも思うのです。今回は報道各社も母親の「風俗店勤務」「ホストクラブ通い」「監禁放置」という点があったことで母親を攻撃してもよい、というお墨付きを得たようです。激しい報道がされ、彼女に同情的な意見を寄せるサイトには「同情する奴は同様に殺人者だ」といったような書き込みもあります。
親が子どもを育てるのなんか当たり前。
それが親の責任だ。
勝手に産んでおいて社会に助けてもらおうだなんて、どこまでもムシがいい。そうですよね。
その通りです。
でも「だから」子どもたちは死んだんだと思います。「母親を責めるな」という意見に対し、「だが母親が殺したんだ、殺人じゃないか」と思うのはその人の自由です。「でも子育てしてる辛さは相当なものだ、援助が必要だ」という意見に「勝手に産んだくせに厚かましい、親が責任を持つのが当然だ」というのも至極まっとうな正論だと私は思います。でも
「だから」子どもたちは死んだんじゃないでしょうか。親が最後の最後まで子育てを諦めず、自分だけで育てようとあがき、自分の裁量ではもはや責任が取れないからと判断したからこそ殺したんです。
世間の望み通り、母親は勝手に産んだ子どもの責任を殺すことで果たしました。
世間一般の望みをきちんと叶えたその母親を、どうしてまだ責めるのでしょうか。
今回の件に関してはそれが「誰にも渡したくない」という自分本位の所有欲から出た行動なのかもしれません。またドキュメンタリーの母親のように「生き残っても苦労するだけ」という不安や心配から殺す人もいるかもしれません。しかし周りを拒否し誰にも頼らず自分の力だけで子育てをして、育てられないから殺して、まさに「親なのだから子どもの責任を持つのは当たり前」と体現した彼女をなぜ私たちが責められるのでしょうか。
【子どもの命の所在】児童福祉にはこういう言葉が使われます。
「子どもの命は親のものじゃない」
「子どもを所有物として見て」
「子どもの命は子どものもの」しかしこういう事件が起こるとそれがあまりにも薄っぺらい建前であることが一目で露見します。
本音は「他人の子どもの生命など知ったことか」もっと言えば「産んだ母親にすべての責任がある」ということです。良く聞く綺麗な言葉と実際の社会全体の意思にはこれほどの乖離があります。子どもの虐待死や親の再犯を防ぐ社会制度全体は今の日本にはありません。児童相談所が見殺しにしたかのように言われていますが児相にはそんな権限も人員もないし、社会制度がそうなんですからどうしようもありません。みんなで子どもを死に追いやっただけです。母が悪いとか一部の機関が悪いとか、この考え方がある限りどうしても子どもは死に続けるし、命を救うことはできないんじゃないかと思うのです。
今回の事件の反響の大きさ、怒り、悲しみを見るたびにすごいことだなあと思うんです。見知らぬ子どもの為に怒ることは、とてつもない優しさです。死んでいく児童を悼み、その親を憎むのも共感能力の発達した人間らしい心だと思います。同様に母親に同情した方もまた、人の悲しみに寄り添える心優しい方たちです。だからなんというかこのやり切れなさを、命を救う方へ変えていけるんじゃないかと思うんです。
私個人としてはですけど、「子どもの命は誰のもの?」と問われたら
「みんなのもの!!」だと言い張ります。
「今は違うけど、そうなる!」と。
現実がいくらそうじゃなくても、そうなるように。
いつか実現するだろうと。
みなさんの優しい心がある限り大丈夫かな、なんて思うのです。
参考資料